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無垢な愛|ヴィンセント・イン・ブリクストン

舞台「ヴィンセント・イン・ブリクストン」東京千秋楽おめでとうございます!
印象に残ったシーンや思ったことを好き勝手書いた感想文です。

言わば、この人には、絵のモチフは、人生のモチフより決定的に遅れて来た。彼の絵画技術獲得に関する殆ど人間業とも見えぬ勉強も、天賦の感受性の鋭敏も、これら両者の間隙を充填する事は出来なかった様に思われる。 ー小林秀雄(1952). ゴッホの手紙 新潮社 p.24.

下宿のキッチンというワンシチュエーションで繰り広げられる、たった5人の人間模様。しかしだからこそ、濃く深く描かれてゆく5人の生き様に「いかに生きるか」を問われた舞台だった。

 

1幕。明るいキッチン。

 溌剌としたマダム・アーシュラと元気の良い青年・ヴィンセントが現れ、実際に料理をしながら進むお芝居。生活感のあるキッチンという視覚効果に合わせて嗅覚、匂いというものがもたらす作用は大きく、観客は一気にブリクストンの下宿という空間に飲み込まれる。それぞれが手元を動かしながら、それ以上に口を動かし飛び交う会話の中で少しずつ明らかになってゆく登場人物。お互いがお互いを探りながらの会話は、観客が彼らを探っていく様子に呼応している。それぞれのキャラクターが明らかになる頃には、料理が出来上がり、一応の関係性が見える。が、サムの「この家は見かけ通りじゃない」という忠告が不穏に響く。
 得意げに絵について語るヴィンセントに対し、サムは「芸術は労働者のためのものだ」と論ずる。それは孤児として育ち職人として働きながら芸術家を志す彼の生きる上での信条であり、当時の工業化と資本主義に飲み込まれたイギリスの様相を思わせるようだった。ヴィンセントのような画商が売りつける複製画によって「芸術を養う目(?うろ覚え)を奪われるのだ」と怒るサム。労働者のその手に、履き古した靴に、すでに美は存在しているのに。彼の眼差しは、後年のゴッホの労働者階級へ向けた眼差しへと重なる。
 反論され鼻を折られたヴィンセントはサムへの当てつけのようなことを語り、しまいには彼の絵に手を加えようとまでする。ここで直情型の性格が顔を覗かせる。ユージェニーに怒鳴られ我にかえったヴィンセントの無垢な無防備さ。(この辺りでもう私は、正門良規ではなくヴィンセント・ファン・ゴッホを見ていた)
 印象は最悪にも関わらず馬鹿正直に、本当に笑ってしまうくらい馬鹿正直に、娘さんに恋をしたと意気揚々と話すヴィンセント。当たり前にアーシュラに拒絶され、「どうしたらわかってもらえるんだ!!!」と叫び頭をかきむしる姿。ここでもまたヴィンセントのエキセントリックさが垣間見える。
 その勢いに押されたのか、それともここですでに「何か」が始まっていたのか下宿の許可が降り、どこか含みのある「ミス・ロイヤー」「ブローマンさん」、と苗字で呼び合う二人の関係性が明らかになったところで、場面は変わる。

2幕。季節は変わり、少し陽が傾き始めたキッチン。

 憂鬱に苛まれたアーシュラとどうにか会話を引き出そうとするヴィンセント。(正門ヴィンセントの、ビールを飲み、パイプを蒸すはまり様ったら……)
 闇の中にいたアーシュラを気にかけ続けていたと、一つ一つ語り、その心のうちに近づこうとする。
「あなたには出ていってもらう時がきた」
「気づいていましたか、あれが僕の仕業ということを」
アルルの女たち」「夜空に光る星のように」と、後年の彼の作品や生活を思わせるフレーズが並びながら、少しずつ、少しずつ、核心に迫ってゆくヴィンセントと、じわじわと暗くなってゆく明かり。まるで現実の夕暮れのように、二人のやり取りに没頭していたらいつの間にか周囲が暗くなっていった、そんな感じだった。

 告白。それは愛の告白だけでなく、2人がそれぞれに抱えている苦しみの告白でもあった。生きることのむずかしさ、くるしみ、それを分かち合った二人。こんなこと話すのは15年ぶりなの! と話すアーシュラは頬を上気させ、まるで少女のようで。
 史実のヴィンセントは弱者への度を超えた奉仕により伝道師の資格を剥奪されるが、彼がアーシュラへむけた感情にはそれも含まれていたのだろうか、穿った見方をして、いや、これは純粋無垢な彼の初めての恋愛なのだ、と思い直す。彼女の暗闇が彼にとっての救いであったのだ。それはそれで一つの美しい愛だ。キスひとつに舞い上がるヴィンセントとそれを微笑み見つめるアーシュラの愛おしさ。
 仄暗いキッチンに佇む2人を照らしだすスポットはあまりにも劇的で、さながら同じオランダ出身の画家、レンブラントの絵画の手法のようでもあった。

幕間。キッチンの外を思わせるような雑踏の音。

3幕。早朝、騒音に溢れたキッチン。

 風来坊アンナの登場、そして女二人の言い争い。一度目の観劇ではアンナのあまりの剣幕に気圧されてしまったが(そしてそれはきっとアンナ役の佐藤玲さんの意図に思い切りはまったということだろうが)、パンフレットのインタビューで夏子さんの、ユージェニーの方が大人で、全てを受け止めて飲み込めるのだという言葉を経てから見る彼女の表情や言葉のトーンに納得がいった。もちろん、ありもしない二股疑惑をかけられ罵倒されたことに対する怒りは持っているのだけれど、アンナと同じ土俵にあがる事はなく、場を制し毅然と去ってゆく。
 家族ゆえの(時として異常なまでの)愛情をヴィンセントに向けるアンナと、家族の目線を鬱陶しがるヴィンセント。サムに何気なく言う「君に家族がいないのが羨ましいよ」は果たしてイギリス的ジョークをヴィンセントが身に付けたのか、相変わらずよくいえばピュアな、悪くいえば人の機微に鈍いヴィンセントの現れなのか、割とひやり、とした。サムの「そんなふうに考えたこともなかったな」の返し方は、これも”ユーモア”の一つなのだろうか。

 離れ離れが耐えられず3日早く戻ってきた。貴女にはやく触れたい、と情熱的に訴えるヴィンセントと、明るいピンクのスカートを纏い人が変わったかのようなアーシュラの蜜月。しかしそれも束の間、ヴィンセントのパリへの転勤をアンナから告げられ、アーシュラは「あなたは縛られることはない」と告げ、オランダで彼女を想いながら描いたというスケッチには肝心のことが描かれていなかった、と言う。
「あなたは描かなかったのよ」
 個人的に、この言葉は重かった。決断を迫られるヴィンセントを1人残し、暗転。

4幕。暗闇。

 少し足を引きずりながら蝋燭を手に入ってくるアーシュラの様子が、その後をまざまざと語る。おそらく、2、3年が経った。

 雷が鳴り響く大雨の夜に、突如現れるヴィンセント。ぼろぼろの彼は着くなり食べるものを求める。絵を描くことはやめた。それよりも良い手段を見つけた、それは人間だ、人間の身体だ。イエス・キリストは素晴らしい芸術家だった。恍惚と神を語る表情は、暗闇の中でゆらゆらと炎に照らされより純粋な狂気を孕んで映る。彼にとっての生きる意味はしかしそこにあるのだ。
 出ていった理由をヴィンセントは語る。「まるで死んだ兄が墓から手を出して引っ張っていったように」……なんだかそこでミュージカル『モーツァルト!』を思い出した。それは神に与えられた才能か、それとも追わされた宿命か。『モーツァルト!』ではそれが幼少期のアマデウスとして表現されていたとしたら、『ヴィンセント〜』では彼と同じ名を持った、死んだ兄であった。しかしそれは一方で、ただの彼の言い訳であったかもしれないが。

 「私は何者でもないから、他の才能を見出すことが私の生きがいだった」と語るアーシュラ。だから学校を作り、サムを応援し、ヴィンセントに希望を見出した。10年以上前に夫に先立たれ(これが直接の原因かどうかは語られてはいないが)、自分自身に未来を見出すことのできなかった彼女にとって、他人への希望を見出すことが未来を見つめ生きることのできる唯一の手段だった。
 翻って自分自身もまた、アイドルという他人を追いかけ続けるのはそこに未来が、希望があるからなのだと、舞台と客席で向き合った、閉ざされた空間で思った。ずっとわくわくする未来を見せてくれる彼らに救われている。その未来、この高揚は、彼らの努力で成り立っているもので、私はそれをただ享受しているだけなのだと、時々我にかえることがある。自分は自分の人生をいかに生きていくつもりなのか、と。

「芸術家は妻や子供を公園の鳩ほど気にしないものだ」
「君は足の続く限り逃げたじゃないか」
「君の絵が上手くなる前にやめてしまおうと思った」
 芸術の道をあきらめ、家族を養うことに注力したサム。すでに葛藤を乗り越えた、覚悟の決まった表情でヴィンセントの責めるような言葉に応える。サムは芸術家の道から「逃げた」、ヴィンセントはアーシュラと共に歩く道から「逃げた」。3幕で美術大学への進学が決まり、不安からか確かな言葉を欲するサムに「僕は信じている」とだけ強く答えるシーンが印象的だった。あの瞬間はきっと同じ未来を見ていた者たちが、数年経てば全く違う地平にいる。

 下宿を出て行って以来、「僕は悲嘆の中に生きている」と訴えるヴィンセント。アーシュラとの思い出と結末は彼を苦しめる闇であり、彼を導く光でもあったのだと。(彼女の立場に立ってみればずるい言い方だなあとも思う。)

 そしてまた何かに取り憑かれたかのようにスケッチを始めるヴィンセント。サムとユージェニーの何気ない日常会話を背景にさらに明かりは暗くなってゆく。またあの劇的なスポットの中、一心不乱に絵を描くヴィンセントと、それを見つめるアーシュラ。ランプの揺らめく炎のように、あまりにもささやかな希望が残された。

 ブリクストンに生きた5人の役者と、その人生に立ち会った観客。この物語を東京グローブ座のこの距離で観られたのはとても良かったな、と思う。

 東京千秋楽の後、国立西洋美術館ゴッホの《ばら》の絵を見に行き彼の生を考えた。この時代、何もかもが溢れすぎていて流し見してばかりだけれど、こうして一つの作品に、そこに生きた人々に向き合うことのできる時間はとても贅沢で幸せでした。そのきっかけを与えてもらったことに感謝しながら、改めて、初日を迎えた皆さんの言葉を読み、愛を深めています。

www.vincent-in-brixton.jp

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余談、ただの偶然であり勝手な深読みかもしれませんが、パンフレット用の写真を撮る稽古日に「関西ジャニーズJr.」の名を冠した狼煙のTシャツを着ている正門さんを見て、演技の仕事の方がより「アイドル」「ジャニーズ」であることを意識する、と言っていたのを思い出した。
少し乱暴なまとめ方をするけれど「ジャニーズ」であるが故にキャスティングされている作品も数多あるだろうし、その中で正直なところ演技や作品自体のクオリティにこれは……というものもある。「アイドル」が演技をすることに対しての色眼鏡もある。
そういうものもあわせ飲んで、歴々の方々と肩を並べて「アイドル」としてお芝居の舞台に立つことの自負を強く持つ正門さんという人は、末恐ろしいなあ、と思うのです。

閑話休題

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芝居、音楽、アイドル。どんな手段にせよ表現の道に立つ彼をこれからも追いかけていきたい、そう改めて思った舞台でした。大阪公演も無事、全員で駆け抜けられますように。

観劇:10月8日昼、10月22日